ばっちの脱線、脱線、また脱線

さすらいの永年寝太郎。あちこち脱線中です。

自分の黒い過去について掘ってみた

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最近voicyで、澤円(さわまどか)さんという方の過去の放送を追いかけて聞いています。
お話を聴いていて、深く同意したり、勝手に親近感を抱く部分がたくさんあります。
自分と共通するキーワードもよく出てきます。
そしてこの回を聴いた時に、何かインスパイアされたのか、僕はあえてわざわざ 笑、幼少期の黒い部分を少し、掘り返してみようと思いました。

※以下に書いたものは超ネガティブな長文(しかも未完)ですが、
(澤さんのラジオがネガティブだ、という意味ではありません)
同じような体験をされた方がもしいらっしゃったら、何かしら感じ取ってもらえるかもという願いを込めて、全文貼り付けてみます。

#Voicy 
#澤円 
#深夜の福音ラジオ


<自分の過去との折り合いについて>

キーワード①「小・中学校時代は真っ黒け」

自分の小・中時代は基本消し去って生きています。当時の友達は一人もいません。
当時しかるべき検査を受ければ(たぶん今でも)、AD〇〇とか、発達〇〇なんかの診断が付いたんじゃないかなと思っています。
これ、定義が合ってるのかどうか知りませんが(調べる気もないので)、今でも整理整頓はできないし、作業を適当に切り上げることができず、やりだしたらいつまでもやってしまうし、何より当時はとにかく忘れ物が多かった。さんざん注意されても直せない。あまりに毎日何か忘れるので、母が怒り、家に入ってくるなと言われたこともありました。
今でも、使う可能性の高い低いにかかわらず、いったんカバンに入れたものはしばらく入れっぱなしなので基本カバンは重いですし、旅行ですか引っ越しですかというくらい、日常で荷物を持ち歩く人の気持ちはよくわかります。

当時学校に行かないという選択肢は自分の中になかったですが、今の状態でもし小学校に戻ったなら、3日どころか半日続かない自信があります。

まず、とにかく給食が嫌いでした。特に当時のあのパンは、自分にとって全く食べられたものではなかった。
毎回コッペパンが二つ、一つは残して持って帰ってよいが、一つは絶対に食べなければならないという、よくわからないルールでした。とにかく苦痛でした。
食べたくないものを無理に食べさせるって、ほかに選択肢を与えないって、虐待と違うんですか。
なんで家から持ってきたらあかんのですか。今どうなのかは知りませんが。
食べたくないけどとにかく無理して食べなければならない。
全然味の合わない他のおかずと同時に口に入れるなど、どうすればパンの味を消して飲み込むことができるか考えたり、もはや食事ではなかったです。
当然時間内に食べられないので、掃除の時間が始まって、机イスを教室の後ろに下げなければならない。僕は一緒に下がりながら、他の机に囲まれた状態で、食べ続けなければならない。
掃除が始まってホコリがもうもうと舞う中で。
これだってとらえようによっては虐待ですよね。

それでも、給食をテーマに書くよう言われた作文の出だしでまず
「給食はおいしい」と書いたことを覚えています。
僕はそんな、空気を読みに読んでしまい、
ただただ気が弱く、自分の意思を主張せずに、平気で自分の気持ちにうそをついて、安全を確保しようとする子どもでした。
周囲の大人も鵜呑みにして「なんだ、おいしいと思っていたのか」と安心してしまう。
そんなわけねえだろって 笑

キーワード②「教師の理不尽な暴力は犯罪である」
生徒間のいじめだって、校外で例えば通行人に同じことをすれば普通に犯罪案件ですよね。
なぜ校内や家庭内だと「いじめ」とか「しつけ」に変換されてしまうのか。
分かりやすい暴力だけではなく、自分の時代には、例えば教師の不作為によって困ったことがずいぶんあったように思います。
話がそれますが、最近は逆に、ことさらに教師を責め、貶め、追い詰める風潮があるように感じます。
それはある意味、学校や教師の過去の言動の蓄積が招いた結果かも知れません。
でもそれは矛先が変わっただけで、やっていることは自分が過去にされたことと同じですので、僕は賛同しません。


僕は小学校で、ある女子から結構ないじめ(身体的ではなく言葉によるもの)を受け続けましたし、
いじめを受けたことを理由(この部分の説明・言語化をする勇気はまだありません)に、中学生になってから、いじめる側に回ったこともあります。
不幸で無意味な負の連鎖、暗黒の連鎖でした。

いじめを受けたのは小学5年と、そのままクラスが持ち上がった6年の時でした。
当時担任だった女性は、見かねた同じクラスの男子が、こんなことが起きていると訴えてくれても、積極的に解決に動くということはありませんでした。
ここでもやっぱり自ら被害を訴え出るということをしていない、自分も自分なのかも知れませんが 笑、
表面上クラスはうまく回っている、その均衡を崩して、自分が例えば親に相談するとか、
もう学校に行かないとか、そういうことをした場合に、かえってめんどくさい展開になることを想像しました。つまり親を含めて、自分が周囲の大人を全く信用していませんでした。
相談することでいじめが解決するとか、丸く収まるとか、そういう展開になるとは全く思えませんでした。
そして、いじめていた子は立ち回るのが上手く、先生にも人気がありました。扱いやすい子だったんでしょう。
(今思えばその子も、内面に何か抱えていたのかも知れません。かばうつもりは全くありませんが。)
僕の方がややもすれば、学校や親からめんどくさい奴扱いをされて、居場所がますますなくなるんじゃないか、という恐れもあったと思います。
今なら、どうぞそういう扱いをしてください、で、もう学校には行きません宣言をして、即終了だと思いますが。
当時は、とにかく6年の3学期が終わり、卒業するまでやり過ごす、という選択をしました。
自分が動かなければ何も起こらない、何も変わらないという、とても分かりよいサンプルかなと思います。

その後、学校でのクラス同窓会のお知らせがあったとき、母親に行かないって言いづらかったので(言うと行かない理由を説明しなければならず、どうせわかってもらえないし、下手したら怒られる種が増えるだけなので、やっぱりめんどくさいと思ってしまった)、
とりあえず嫌々家を出て、少し遅れて校舎の前まで着いたものの、
楽しそうな笑い声が聞こえてくる教室にどうしても入る気がしなくて、
結局そこらをうろうろして時間をつぶして帰ったり、
遅れて小学生をしていた(当たり前ですが)弟の運動会を観に行った時に当時の担任に出くわして、
挨拶したくないので近寄らないようにしていたら、向こうから近寄ってきて、
あくまで主観ですが、「久しぶりに会っても、先生に挨拶もできない子」に対する大人の反応、
をされたように感じたり、ただただ不必要な被害者意識を育んだ小学校時代でした。

中学校でも、自分の前提は、学校生活に期待しない、大人を信用しない、ですので、
面白くなるはずはありません。自分で決めた前提どおりのつまらない3年間でした。
ただ目立たないように、余計な事をしないように。
前述した、いじめる側に回るというのはありましたが、それも周囲の顔色をうかがいながら、反応をみながら、
こわごわやっている感じでした。問題が大きくなりそうだなと思ったら、ぴたっと止めて静かにする。
自分の周囲の大人を真似していたともいえます。
おおむね、特筆すべきものは何もない、中学校生活でした。
勉強してましな高校に行けば、少しはましな高校生活が送れるのかな、程度の視野の狭い(当時は切実な願いでしたが)期待を抱いて、そのために勉強していたような気がします。


続きは、少し休憩してから書きます。
(過去との折り合いについて、まだ全く書けていないのです 笑)

 

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